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ありのすBlog arinos_blog

真野蟻乃典(MANO Arinoske)|「ありのす」管理人・主宰

なぜポール・マッカートニーは「カタカナ」の日本語を話すのか

ザ・ビートルズThe Beatles)のメンバーであるシンガーソングライターのポール・マッカートニーPaul McCartney)氏(以下、ポール)が2年ぶりに来日した。もうあれから一週間ほど経ってしまったが、連日様々なメディアからものすごい勢いでセットリスト(演奏曲目一覧)やライブレポートが公開されていたことはまだ記憶に新しい。たとえば、こんな記事だ。ポールの素晴らしい演奏や演出に会場が沸いたことが伝えられている。

ポール熱唱、熱狂4万8千人 東京ドーム公演始まる:朝日新聞デジタル

ポールさんは日本語で「コンバンハ、ニッポン。コンバンハ、トーキョードーム」「コンカイモ ニホンゴ ガンバリマス」などと語りかけ、会場を沸かせていた。

公演の中ではポールが日本語でMC(曲間のトーク)をする場面があったのだが、記事を読むとどうもポールは「カタカナ」の日本語を話している。これはどこの記事を読んでもだいたい同じように表記してある。なぜポールは「カタカナ」の日本語を話すのだろうか。その答えも報道が教えてくれている。たとえば、こちらの記事が象徴的だ。

「マタアイマショウ!」ポール・マッカートニー【ワン・オン・ワン・ジャパン・ツアー2017】ついに終幕 | Daily News | Billboard JAPAN 

今回も「コンバンハ!」「サイコー!」などはもちろん「ゴールデンウィーク」「トーキョードーム」さらには「ビートルズ」まで、きっちり日本風のカタカナ発音で披露してくれたポール。

記事には「日本風のカタカナ発音」とある。ポールの話す日本語が「カタカナ」なのは発音を忠実に再現したからだということになる。いわゆる片言の日本語というものである。実はわたしも会場で聴いていたので、ポールがどのように発音していたかは分かる。しかしポールは全編に亘って日本語を話していたわけではなく英語でMCを入れることもあった。その際はステージ左右のスクリーンに同時通訳で字幕が出るようになっていた。この「字幕になった日本語」はどのように表記されたのだろうか。それについてはこちらの記事がわかりやすい。

ポール・マッカートニー、武道館で満員のファンを魅了。「ずっと昔の話。ビートルズがこの場所で演奏した」 – 音楽WEBメディア M-ON! MUSIC(エムオンミュージック)

「コンバンワ、ニッポン。コンバンワ、トウキョウ。コンバンワ、ブドウカーン」と日本語で挨拶し、拍手を浴びた。(中略)「ずっと昔の話。ビートルズがこの場所で演奏した。素晴らしいこと」と話し、続けて日本語で「ツギハ、ビートルズ、ハツレコーディング」と曲を紹介し、「In  Spite Of All The Danger」を演奏。 

このように英語を翻訳した発言はひらがなとカタカナと漢字で、すなわち、いわゆる「通常の/自然な日本語表記」になっている。同じ人物の発言であるにもかかわらず、英語と日本語で表記法が異なるのは少し不思議な感じがする。だが、これもやはりどこの記事を読んでも同じように書いてある。なぜか。

それはポールが「日本語非母語話者」(いわゆる「ノンネイティブ」)だからだ。非母語話者の助詞が抜けていたり、発音が異なったりしている日本語は「不自然な日本語/外国人の日本語」として「カタカナ」に回収される。もちろん〈非母語話者の日本語はカタカナで表記すること〉という決まりはない。仮にマスコミ業界に暗黙の了解があったとしても、社によって「コンバンワ」と書いたり「コンバンハ」と書いたりしているし、一方で「コンバンワ」と書きながら他方で「ツギハ」と書いていたりもすることから表記のルールなどないことも分かる。

だからポールが「カタカナ」の日本語を話すのには、ただ「非母語話者が話した不自然な日本語」だと分かりやすくする機能があるだけなのだ(これを有標化という)。この機能は、一つには親しみを表現する効果があるのだろう。メモを見ながら不慣れな日本語を一生懸命に話す姿に日本への親しみを重ね「カタカナ」に込めたのだろうと想像できるからだ。それがカタカナなのは、外来語などを日本語表記にする場合、カタカナが使われることも影響しているのだろう(例:concert → コンサート)。

しかし、そこにいくつかの問題が潜んでいる。非母語話者(もっと端的に言えば「外国人」)の話す日本語を「カタカナ」で表記することのいったい何が問題なのか。それは「カタカナの日本語」≒「非母語話者が話した不自然な日本語」が一つの「言語景観」となって見ている人にすっと埋め込まれていくことにある。確かに「カタカナの日本語」と「通常の/自然な日本語」の二表記を書き分ければどこで〈日本語〉を話しているのかが「わかりやすい」。しかしその区別ははたして要るのか。要るにしても「われわれ」への「わかりやすさ」と「当事者」への「わかりやすさ」は決して一致しない

一つ例を挙げよう。日本語を学習している留学生と日本の学校などを訪問すると、自己紹介の時間などで名札にカタカナで自分の名前を書いてくれる方が多い(例:アリノスケ)。それは留学生=外国人=外国語=カタカナという単純な図式が埋め込まれ「わかりやすい」という配慮からなのだろう。しかし実は個人差はあるが、特に習い始めたばかりの日本語学習者にとってはひらがなよりもカタカナのほうが難しい。今回のように「カタカナ」の日本語で書かれた記事を目にするうちに、まるでポール(非母語話者)が本当に「カタカナ」の日本語を話しているかのように錯覚することで、カタカナなら通じると思い込まされている。

そこまではまだ笑い話になるかもしれない。それに今回の記事には直接的な悪意など込められていない(それどころか上で見たように敬意や称賛が込められている)ことは読めば容易に読み取れる。しかし、悪意がないから問題ではないと言い切ることもできない。境界は常に曖昧なのだ。表裏一体と言ってもいい。ふとした瞬間にそれが悪意を持って立ち現れる。発音や表現を馬鹿にする態度を下支えする根拠にもなりうる。どういうわけかポールのような「お客さん」には「親しみ」を持って受け入れられることも、「生活者」になったとたん「正しさ」に押し込められることもある。だからここでは「正当的な/通常の/自然な/普通の/正しい日本語」の枠組みをきちんと問い直していく必要があるとまずは言いたい。

確かに「正しさ」はどこか安心する。誰もが「正しく」ありたいと思うのは無理もないことなのかもしれない。しかし絶対的な「正しさ」はどこかにあるのだろうか。「正しくない」以上、それは「正しい」方向へ持っていかなければならないという発想になってしまうのではないか。そもそも「正しくない」ことは本当に「悪い」ことなのか。どうだろうか。

少なくとも、母語話者の発音が不自然であると簡単に言ってしまえることに危うさや躊躇いを持ったほうがいい(だから日本語教師は「日本人なら誰でも(判断)できる」なんて言われてしまうのだと思うけれども)。そこにはすでに無意識・無自覚の規範が生まれているからだ(これをわたしは「まなざし」と呼んでいる。)。そしてその規範(「まなざし」)は無意識・無自覚のうちに差別を拡大していく。

このように身近なありとあらゆることの中に「差別」の構造が埋め込まれている。だから気を付けなくてはならない。敏感でなければならない。面倒くさかろうが「常識」だとか「自然」だとか呼ばれるもの一つひとつを手に取り、それは何なのかを確かめ考えていくことが必要なのである。

っと、長くなってきたので、今回はこのあたりで。次回は稿を改めてさらに「差別の構造」に迫ってみたいと思います。よろしければ引き続き、よろしくお願いいたします^^

 

ありのすけ

位置について

ちょっと、待って、待って、まって――。

なんで、いつもそうなっちゃうんだろう……。わたしは、また身動きが取れなくなる。

 

SNSで、日本語教師の某氏が「ヘイトスピーチ」をした。それが「まとめ」になって日本語教育と人種差別に関しての炎上が起こっている。この騒動を目撃したわたしは、得も言われぬやるせなさに襲われて目を回した。

何の話か分からない読者にはいささか不親切だと思うけれど、そのまとめはここには貼らない。発言主がアカウント自体を閉じてしまったし、個人情報までもご丁寧に晒されているからだ。これ以上、不用意に拡散することはしたくない。

確かにアカウントを閉じたことに関しては、晴れない気持ちもある。だが「逃げた」とも取れるが「追い詰められた」とも取れるわけで、 アカウントを閉じるよう指示や助言があったのかもしれないし、自分で決めたとは限らない。つまり分からないのである。いずれにしても、どのような理由があれ、匿名の一個人を個人を特定したうえで糾弾するためのまとめ自体を公開する必要性はないと判断した。

ただしわたしの立場としては、某氏の発言自体は撤回・謝罪あるいは釈明すべきものだという強い憤りがある。だがそれを以って某氏を吊るしあげることにもまた強い憤りがある。そもそもどちらが正しいと決めつけることなどできない。それはなぜか。炎上を覚悟で(そんなに読んでくれる方がいるかもわからないけど)、とりとめもないことを書いておこうと思う。ここで何も言わなかったら、それがいちばんよくないと思うからだ。

その前に、代わりに一つ補足をしておくと、炎上していると書いたものの、実のところ「一部で」というのがより近い表現かもしれない。多くの日本語教師は(わたしも含めて)傍観しているか、一言程度コメントをつけるに留まっている。その少し前には、文型シラバスとタスクシラバスのどっちがいいか、でいろんな立場の方がとても盛り上がっていたというのに。「明日の授業」に直接関係がないことにはそれほど関心を示さないのか、あるいは、発言しにくい話題になってしまっているのか、何も言わないことで某氏を肯定・支援するという意思表示なのか……。

わたしはといえば、その時にも感じたことだったが、どことなくそれは不毛な議論になる予感がして何も言えずにいた。 どちらがいいか、どちらが正しいかを決めようとしているように見えたからだ。「正しさ」を求めはじめたら、そんなの争うしかなくなっちゃうじゃないの。苦しいだけなのに。でも今回は見て見ぬふりはしないことにした。わたしはちゃんと「わたし」を主張する。

 

この騒動のなか、わたしがふと思い出したのは、山本(2012)だった。YouTubeにアップされた動画につけられた複数言語のコメントを分析し、言語が持つ他者を攻撃・否定する一面を実例を以って示したものである。

山本の主張は言語学習の美点ばかりを強調するのではなく、「英語は学ばれ、習得された。そしてここでは、他者を攻撃するために用いられた」(p. 85)と外国語(ここでは英語)を学習したことにより、「顔も名前も知らない他者」を傷つけることが可能となったことを暴き出すものだった。「英語以外の言語で記されていた場合には、非難や否定の応酬に繋がらなかった」(p. 85)というのである。

今回の件は言語学習の例ではないが「顔も名前も知らない誰かとの/不特定多数とのコミュニケーションの機会」(p. 85)であることに変わりはなく、「国籍や民族を基準として、知らない他者を否定する/知らない他者に否定されるという有様」(p. 85)を呈している。このことから山本の主張は広く援用できるものと考えている。山本を読んでわたしが考えたことはおおよそ次の二点だ。

ひとつ。わたしがこれを書いているこの瞬間にも、誰かが誰かを様々な言語でののしりあっているのだろう。世界中にはあらゆる差別が蔓延っている。そう考えれば、ますますたった一人の過ちを徹底的に傷つけ決して許さないでおくことの意味は薄れる。この世の中ではどんなに悔やんでも、償いきれないことのほうが多い。目についたものだけを排除しようというのは、気持ちはわからなくはないけれど、穏やかではない。

ふたつ。暴言や罵倒などは言葉の暴力だと言われることもあるけれど、わたしは厳密にはそうじゃないと考えている。 暴言や罵倒を言葉の暴力たらしめるのは、「名づけ」である。これは暴言だ、と名前をつけることで、暴力として表出されるという意味だ。着目したいのはすなわち「名づけ」そのものが時として暴力にもなる、という点である。名前をつけ、ほかと「分断」し、呼び出すことで、暴力ひいては差別が始まる。だから結果としての差別だけではなく「名づけ」にまで立ち戻る必要がある。

この二点はわたしたちが事態をどう「まなざす」か、ということに集約される。

だから敢えて言いたい。人種差別が差別なのではなく、「人種」や「民族」を実体化しようとすることこそが、差別なのだと感じずにはいられないのだということを。一方では実体化しながら、一方では無力化させようとする。それは無理だ。「名づけ」の力は、最後まで積みあがらない石のように脆く、引き抜いても生え変わる雑草のように根強い。表面だけを見て、あの人は「〇〇」という属性だと安易に判定することに意味はないはずだ。

 

ここでもう一つ、刺激的な文献にあたろう。右だろうが、左だろうが、度を越せばそれはただのセクト主義である、というようなことをパウロフレイレが言っていたような気がして、久しぶりにぱらぱらとめくる。

やはりあった。フレイレは畳みかけるようにセクト主義を批判する。ちょうどこんな感じだ。

セクト主義は狂信性に基づいていて、結局いつも人間の思考を骨抜きにしてしまう」

セクト主義は神話的ともいえる内向きの理論で構成されるため、人間を疎外していく」

セクト主義は内向きで、合理的ではないため、問題ある現状をさらに偽りの現状に変えてしまうため、結局現状変革をもたらすことはない」

「どの立場のセクト主義であれ、セクト主義は人間の解放を妨げるものだ」

フレイレ,2005/2011,pp. 12-13)

何も、あなたはセクト主義ですよね、って言いたいわけじゃない。「セクト主義」はこうだって、言えば言うほど、そう、たちまち、まなざされて、からめとられて、流されてゆくのは、もう、いい加減にしてよ、ってぐらい思い知ってる。

だからわたしが言いたいことはそんなことじゃない。誰かを「悪者」にして立ち上がる未来ならいらない。どちらが正しいか、正しくないか、なんて文脈によって十分変わりうるのだ。それでも断じたいというその気持ちはどこから来るのかを考えなければ、同じことの繰り返し。ただ許せないことが増えてゆく。学習性無力感でいっぱいになる。そして、争うしかなくなってしまう。

どんなことがあっても、どんな相手とも、ともに生きてゆくことを目指せなければ、それは欺瞞だ、偽善だ、演技だ、自己満足だ。何もとにかく折れろと言ってるわけじゃない。すべてを受け入れ愛したまえなんて言ってない。ただ、なぜあなたはそう考えるの、と問えばいい。それがコミュニケーションなんじゃないの。そこからじゃん。と、いう話がしたいんだ。まして日本語教育の役割の一つによりよいコミュニケーションの促進があるのだとすれば、日本語教師がそれを諦めてしまうことのほうがよっぽど怖い。

 

わたしのそんなには長くないキャリアのなかでたった一度だけ学生の前で泣いたことがある。まだ日本語教師になったばかりのころだった。

「先生たちは〇〇人が嫌い。わたしたちあの人たちと同じじゃないね」

ある学生が吐き捨てるようにそう言ったのを聞いて、わたしは気付くよりも先に泣いていた。ぼろぼろ涙をこぼすわたしを見て、その学生は「先生のことじゃない。先生はいい先生」と慌てて言ってくれたけど、そんなことじゃない。ただ自分のことを非難されたぐらいだったら泣いたりしない。こんなにも強烈に発露されるナショナルアイデンティティとそれに基づく憎しみの感情、それを誘発した自らの教室の罪深さ、それを担保するクラスメイトや同僚そして「わたし」。わたしにとっては呪いの呪文だった。

どこで違えたのか、きっとそれはほんの些細な所作にも表れて、憎しみは積みあがる。そしてそれは語られない。どうしてか「タブー」のようになって、しまい込まれてしまう。たとえ爆発しなくても。「日本文化」だとか、「あなたの国の文化」だとか、そんなものばかり、にこにこしながら教室に持ち込んで、どんどんと実体化してゆく。リバーシブルだとも知らずに。めくったら、何が待っている?

だからね、別にいわゆる「ヘイトスピーチ」だけが差別的な発言ではないの。それも差別には違いないけれど、それだけを取り締まればいいとは思えない。「〇〇人の」と口にした瞬間にためらうことがあるだろうか。ないだろうか。「〇〇人」なんているんだろうか。いないんだろうか。本当だろうか。どうだろうか。

「〇〇人」と言うことが気持ちいい人もいるのだろうし、それを誇りにすることを否定するつもりはない。でもわたしはこの一件以来、「〇〇人」というアイデンティティを背負わされることも背負わせることもほとほと嫌になってしまった。もう正直に言う。それって日本人的だよね、なんて言われた日には、それはわたしにとっては十分すぎるほどの「ヘイトスピーチ」なのだ。こういうことを言うと、じゃあ日本人やめればと言われることがあるが、そうじゃない。わたしが逃れたいのは「日本人」であることじゃなくて「〇〇人」という帰属性そのものなのだ。何人であるかではなく、何者であるかでここにいたい。

けれどもその囲いは国籍に留まらず、性差、年齢、世代、職業、宗教、家柄、嗜好、婚姻、風貌、体質、収入、経歴……あげつらえばきりがないほどにわたし(たち)を押し込めて、そのたびにわたしはいつも逃げ出したくなる。だから何だよって言いたい。あまりにも分断して敵対して、それでどんな未来をつくりたいんだろう。自分(たち)にとって都合のいい世界をつくることが、「理想の未来」なの?それってほんとによりよい未来なの?ってちゃんと言い合える、実はこうなんじゃないの?って相談し合える、そっちのほうがよくない?「理想の未来」は永遠にやってこないの。一人ひとりが「理想の未来」を目指そうとして、うまくいかなくて、それでもともに生きるから、未来は変わるの、できるの、それが「よりよい未来」なんだと思うの。

 

まだわたしは主張する。そんなのきれいごとだよねって言われると思う。いい加減これ長いんだよって言われると思う。それでも関係なくないんだ、ということ。

例えば「あの女性はとてもきれいだ」と思うこと。これが「まなざし」だ。でも「あの女性はとてもきれいだ」ということと、「あの女性にはきれいでいてもらいたい」ということは同じではない。また「こちらの女性もきれいだ」ということとも一致しない。しかしそれが「女性はきれいだ」「きれいであることは女性にとっていいことだ」と解釈されることで「女性」を作り出し、また「女性」像が強化されることで「男性」とは違うという「まなざし」が生まれ、「女性」か「男性」かを規定したくなる、規定できると思い込まされる。それは何度でも再生産されてゆく。そして「女性は美しくあるべきだ」「女性とはこういうものだ」と生きづらさを引き連れて拡大して、あぁ、戻ってくる、これはなんだ?

「女性に生まれてよかった」「女性になんか生まれなければよかった」「女性でいさせてもらえない」「女性になりたい」「女性は素晴らしい」「だから女性は嫌なんだ」「女性だからこうしなくちゃ」「男性はいいよね」「男性のこういうところが嫌」「男性のくせに」「いやまあ女性も男性も人間っしょ」……おいおいおいおいおい、もうやめてくれよ。

だからさ、肝心なことを忘れていないか。それを選び取る、ということが大事なのだ。「きれいでいたい」と思えば誰であれ、きれいでいられる、それもその個人の考える「きれいさ」の基準で。それを尊重する。お仕着せの「〇〇」像ではなく、わたしにとっての「わたし」を関係性のなかで構築することができる。そんな社会のほうが生きやすいとわたしは思うのだけれど、どうもそうじゃない?でもね、そうでなければ、決して、決して、決して、差別のない未来はやってこない。

だから人種差別の話を「人種」を取り立てて議論しているうちはきっと何度でも同じことが起こって差別はなくなんないんだって悲観的になるしかなくなる。そうではなく「差別」に向き合って、「差別」とは何か、なぜいけないのか、どうして起こるのか、どのように解決できるか、といろいろな立場の人間がひたすらに意見交換していくことを目指せないだろうか。

ありとあらゆる「まなざし」を解体し、ともに編みながら、そのなかに、未来を、希望を、創発できないのかなぁ。そうでなければ、どうしたって報復のようになってしまう。そしてそこからこぼれ落ちるものがたくさん生まれる。

人種差別を気にする人がいる。地球環境を気にする人がいる。男女差別を気にする人がいる。食べ物を気にする人がいる。でも、それぞれそれ以外には無頓着だったりする。自分が許したくないものだけを熱心に囲い込んで許さない。それは結構、むちゃくちゃな話なんじゃないかな。どんな立場にいたって一人ひとりを尊重できないのなら、それはやっぱり、行き詰まる日がやってくる。もう行き詰まっているのかもしれない。

 

ここまで考えて、また何も言えなくなりそうで、ちょっとだけ苦しい。

わたしは、いつも走り出せない。位置について、それで力尽きてしまう。

位置につくことのその先に待つグロテスクな幻影の後ろ姿を見てしまうからだ。

まだ前を見る前に自信を失ってゆく。躓いてばかりだ。

 

わたしは、どこにいるのか。どこへ向かうのか。

あなたは、いま、どこにいるのか。どこへ向かおうとするのか。

 

でも、そこに課題があるのなら、いかなくちゃ。何度でも言わなくちゃ。黙っていたら、逃げてばかりいたら、伝わるものも伝わらない。今日のわたしのことばは届かないかもしれない。それでもいつかどこかで掬ってくださる誰かが、きっといるはずだと信じることから始めたい。

コナンくんには悪いけど、たった一つの真実なんてないんだよ。あるのは、「まなざし」とそれに「まなざされたもの」だけ。だから「まなざし」を鍛えなければならないの。まったく残酷だ。でも、特にポストトゥルースと言われるこの時代には、「よりよい未来」をともに考える「まなざし」が必要です。

 

だからわたしは「ありのす」を作りたかったのだと今は思います。「まなざし」からこぼれ落ちるものを、掬いあげるために。たくさん言ってごめんなさい。きっと不快になった方もいらっしゃるでしょう。それでも最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。あ、コナンくんは好きですよ。

 

ありのすけ

 

文献

フレイレ,P.(2011).三砂ちづる(訳)『被抑圧者の教育学――新訳』亜紀書房(Freire, P. (2005). Pedagogia do oprimido. 46th ed., Rio de Janeiro: Paz e Terra.).

山本冴里(2012).言葉は繋ぐ/言葉は断ち切る――他者非難・否定のコメントにおけるナショナル・アイデンティティ表出と英語使用『国際研究集会「私はどのような教育実践をめざすのか――言語教育とアイデンティティ」プロシーディング』79-86.

新年度

今日から新年度がはじまりました。2017年度です。それぞれにいろいろな、そして新しい年度となることと思います。わたしもここ数年はどうも代わり映えしない新年度だと思ってきたのですが、今年は変化の年になりました。

やってみたいことも今はたくさんあります。いろいろと楽しみな年度初めです。またこちらでも追々書いていきたいと思います。今年度もどうぞよろしくお願いいたします。

 

ありのすけ

それでも、結ぶ、編む、そして折る。

こんばんは。今日は友人のお墓参りに行ってきました。数年ぶりに会う友人もおり、懐かしい思い出話などに花が咲きました。

人とは不思議なものです。つくづく思うのです。ここ数年、人とかかわることがとみに増えました。仕事柄、というのもありますが、いわゆる日本語のお仕事とは関係のない方々とも接する機会が多くあります。

出逢いがあれば、別れもまたあります。特段、春はそんな季節のような気もしてきますが、何のことはない、それはいつでも、どこでも、ふとした瞬間にやってきたりします。そのたびに、何度でも思い出してゆくのでしょう。

いつ、どこで、だれと、どんなふうに出逢い、なにをやりとりし、その果てになにを視るのか。それはその一瞬にしかわからないものであり、どうすることもできないのだと知っても、なお、わたしは、わたしを生きようとしてみるのですね。

ふと、そんなことを思いました。書き留めておこうと。これも、よくわからない「ありのす」の一部になればいいなと思います。ここで考えたことが、きっとよりよい実践を、よりよい人生を、よりよい未来を作ってゆくことになるはずだと信じて。

なぜ出逢うのか。今宵も問いましょう。おやすみなさい。

 

ありのすけ

始動

というわけで、ずっと(表向きには)休眠中だった「ありのす」がようやく始動します。「ありのす」ってなんだよって思われる方のほうが多いと思いますが、わたしの「何かやりたい」という漠然とした想いの表れです。そのために「何すりゃいいんだ?」で動けなくなっちゃった残念な何かです。

でももういいんです。残念な何かでも、動き出していけば、見えてくることもあるでしょう。動き出さなくちゃ始まらないのですものね。だからきっといろんなことをやっていくでしょう。それでも応援してくださったら励みになります。

わたしは日本語教師です。が、「ありのす」でやりたいことは何も「日本語教育」に限りません。むしろこの業界と取り巻く業界の根深さに早々に心が折れてしまったわたしとしては、一刻も早く「日本語教育」から逃げ出したい気持ちでいっぱいです。でもただ逃げるのはまぁいつでもできるので、よりよい逃げ出し方をひたすらに考えてみようというのがたぶんもともとの始まりだったと思います(2年ぐらい前)。

それからもいろいろありましたが、今もこの「よりよい逃げ出し方」と向き合ってみたいという気持ちは持ち続けているように思います。この時代に「よりよい逃げ出し方」を必要としている方はたくさんいるような気もして、そんな方々への開かれたシェルターとなって、ともによりよい未来を考えてゆけたらなぁと今は強く想います。

まずはウェブサイトを作りました。何もありませんが、徐々に更新していけたらと思っています。主にはむしろこっちのブログをちゃんと書きますね・・・^^;)

http://arinos.webcrow.jp/

そんなわけでよしなに。ともに逃げましょう、よりよい未来へ。

激務のあまり引いた風邪が治るどころか悪化しているんじゃないかと思う今日の真野でした。ジャスミンティーでも飲んで今夜はリラックスしたいですね。

 

ありのすけ

あれから

6年です。あの日わたしは大学の図書室で図書整理のアルバイトをしていました。書架と書架の間で蔵書登録・点検などをしていたその時に揺れはやってきました。はじめは少し揺れてるなあというぐらいの感覚でしたが、あまりに長い揺れにわたしは瞬間、恐怖を覚えました。身の危険を感じたのです。作業中のノートパソコンを抱えて、作業台にしていた机の下にもぐった次の瞬間、強い衝撃とともに上から大量の本が降ってきました。間一髪でした。あの本に埋もれていたと思うと、厚い本の当たり所が悪かったと思うと、言葉になりません。

そんなあの日からもう6年が経ちました。日々の中で振り返ることも少なくなってきたのが正直なところです。あの日の恐怖も忘れかけているのかなと思うこともあります。あれからいろんな思いを持ってこの日に立ち会ってきて、わたしがやり直すのはこの日からなのだろうなと今日は思います。その意味も呪縛もいつか解けると信じて。

ありのすけ

新年のご挨拶のような

隔月ぐらいで更新していけたらいいかなあと思って、12月末に年末のご挨拶でも書き込もうと思っていたんです。

でもなんだかいろいろなことがあって、思うように書けないままでいました。気が付けば、今日はもう1月も半ばです。

やりたいこと、やってみたいこと、やろうとしていること、山のようにあるんです。ほんとうは。それを小出しにでもしていきます。

たぶん、はじめはわたしの、逃げる場所を作っておきたかった。きっと正面からやりすぎるといつだって逃げたくなるんだとわかっているから。だけど、それじゃあきっといつまでもやりきれない。もう2017年だから、裏だとか表だとか、そんなのはとりあえずいいや。

やりたいことがある。それをやってみる。やりたいだけ、やりたいようにやってみる。別に恰好なんてつかなくたっていい。むちゃくちゃなわがままを通していこう。そんなつもりでいたはずなんだけど、まだまだだったね。

さて、そんなわけで、ひとまず多くは語りません。先へ先へと進んでまいります。本日をもって「(仮)」を外して、よくわからない「ありのす」の一部としてきっと何らかの役目を負ってゆくものと思います。笑

改めまして、本年も、いや、本年から、ですね。どうぞよろしくお願いいたします。

 

ありのすけ