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真野蟻乃典(MANO Arinoske)|「ありのす」管理人・主宰

意見提出をしました

こちらではお久しぶりです。しばらく更新が止まっていてすみません。

 

例の文化庁の意見募集にありのすとして意見提出をしましたので全文公開します。

 

わたしはわたしなりのやり方で、少しずつこの業界と戦っていきます。

 

ご意見等いただけますと幸いです。まとまりありませんがよろしくお願いします。

 

ありのす Arinos|日本語教育人材の養成・研修に対する意見

 

ありのすけ

日本語教育推進基本法(仮称)のこと、その1:キーノートまとめ

 さて、何から書こうかと考えているんですが、やはり多くの方のご関心は「基本法」にあるのではないか、という気もするのでまずはそこから整理していきましょうか。

 先の記事にある5日連続でわたしが参加した研究会で言うと、3日目にあたる日本語教育振興協会(以下、日振協)の平成29年度日本語学校教育研究大会(以下、教研大会)の基調講演に関する話となります。基調講演では日本語教育推進議員連盟仕掛人であり、代表代行であり、元文部科学大臣でもある中川正春氏から「日本語教育推進基本法日本語学校教育」という演題でお話がありました。

 まず、日本語教育推進議員連盟(以下、日本語議連)について簡単に補足しておきましょう。日本語議連は2016年11月に発足した超党派国会議員の集まりです。議員連盟というのは同じような目的を持った議員が集まって有志的に作られるもので、日本語議連の場合は「外国人が日本社会に溶け込むために必要不可欠なのが日本語教育です。しかし、日本語には、何ら法令上の規定がありません。(中略)課題の解決とともに、日本語教育の基盤を強化する必要があります。」(「「日本語教育推進議員連盟」(仮称)のご案内」より)という問題意識を持った議員たちが日本語教育の推進を目的に立ち上げました。
 そうは言っても日本語議連は、まだWikipediaにも載っていませんし、公式ホームページなどもない実態のわかりにくい集団ではありますが、支援団体として「にほんごぷらっと」(以下、ぷらっと)という任意団体があり、日本語教育情報プラットフォームというウェブサイトで日本語議連に関する情報などを発信しています。またこれまでに8回開催された総会の資料は日本語教育学会(以下、NKG)のウェブサイトにPDF形式でアップロードされています。
 日本語議連?ぷらっと?NKG?どういう関係?よくわかりませんね?まあとりあえず今はそういう団体ができたということだけ認識していただければよいのでここでは先に進みましょう(議連についてはそのうち別の記事を立てます)。で、この日本語議連の中にさらに日本語教育推進基本法立法チーム(以下、立法チーム)を作り、法制化に向け動いているというのが今の状況です。

 次に、立法チームが法制化を目指している日本語教育推進基本法(以下、日本語基本法)についても補足をしておきます。これは上述の目的のもと集まった議連の一つのゴールともいえるもので、これまで法的な根拠のなかった日本語教育について超党派の強みを生かした議員立法で法律を制定させ、日本における日本語教育の基盤づくりを行おうとするものです(この補足は不要かもしれませんが、法制化の手続きとして、国会に法律案を提出し、衆議院参議院の両議院で可決される必要があります。その際、法律案の提出には政府(内閣)が提出する閣法と、国会議員が発議する議員立法(衆法、参法)の二つの方法があり、今回は後者の議員立法を採るための超党派の議連であるとのことです)。
 で、今回の立法チームが制定を目指すところの日本語基本法はまさに「基本法」であり、日本語教育の推進や振興のための第一歩となるべきものです。基本法というのは、あることについての国としての基本的な方針や原則、理念などを定める親となる法律であり、この基本法に基づいてその後、子となる個別法が制定されていきます(たとえば、教育基本法災害対策基本法などがありますね)。そのため日本語教育の法制化と言ったときに、現状何もないのでまずはこの基本法から制定していく必要があるというわけですが、「日本語教育推進基本法」というのは仮称であるとされています。立法チームとしては来年の通常国会で成立させるつもりで準備を進めているそうです。

 さて、補足のほうが長くなってしまいましたが、できるだけ丁寧に読み解いていくために念のため書いておきました。「そんなん知ってるわ!」という方は適当に読み飛ばしてください(先に言うべきでしたね、ごめんなさい)。で、ここから本題です。日本語議連の代表代行であり、立法チームの座長でもある中川正春氏が日振協の教研大会で直々に目下構想中の日本語基本法について語りました。その内容とポイントについて整理します(なお、すでに教研大会についての「ぷらっと」からの報告も出ています)。

 まず、講演の冒頭では中川氏の経歴のお話があり、その中で、「世界中から人が集まってくる国が魅力のある国だ」というような認識をお持ちであることが述べられ、そのため移民を含めた人の移動・受け入れについて前向きに検討していく必要がある、というお考えを表明されました。しかし、現状の政策では外国人の受け入れに本音と建前の矛盾が見られ、国家戦略としての日本語教育体制を整備していくことが急務であると強調されました。留学や技能実習を隠れ蓑に就労目的で来日している現状についても言及され、就労枠と留学・研修枠はきちんと分けるべきだろうとの問題意識はあるとおっしゃっていました(これはわたしの感想ですが、政治家の中にもそのような現状認識をされている方がちゃんといらっしゃるということは印象的でした)。
 そういった経緯で、問題意識を持った中川氏のほうから株式会社移民情報機構の石原進氏(のちに議連の発足に合わせ上述の議連の支援団体である「ぷらっと」の代表世話人に就任)に相談を持ち掛け、今回の日本語議連の発足となったとのことでした。ただ、政治家主導で動き出した日本語教育の法制化について、中川氏からは「本当は現場の方から声が上がって、その声を受け止めて政治家が動き出すほうが理想的なんだけど」というような皮肉めいたご発言も述べられていましたが、本気で日本語教育日本語学校を応援したいという想いがあるからこそだろうと感じました。
 続いて、肝心の基本法の内容についてのお話がありました。あくまで骨子案として口頭で示されたものにすぎませんので、多少の修正は今後も入ってくるのだろうと思いますが、日本語基本法に盛り込まれる内容は以下のようになるとのことです。

Ⅰ.総則
 1.目的
 2.定義(「日本語教育」という用語の国としての定義づけ)
 3.理念(「日本語教育を望むすべての者に対してその機会を確保する」というような趣旨)
 4.国の責務
 5.関係省庁等の連携
 6.財政上の措置(資金、予算など)
Ⅱ.基本方針・示唆
 1.日本語教育の普及・推進に関する施策を定めること(子ども、留学生、就業者・求職者、海外・地域別など対象別に)
 2.日本語教育の質に関する施策を定めること(日本語学校の在り方、人材育成、教育内容、教材、評価などについて)
 3.日本語教育の調査研究に関する施策を定めること(総合的・体系的なもの)

 この骨子案は年内には公表できるように調整していくとのことでしたが、その後、外部からの意見などを訊き、最短で来年の通常国会に提出し、そのまま可決・成立まで持ち込む算段だそうです。骨子案はこれまで8回開催された総会の中で各関係機関からのヒアリングをもとに作成しており、具体的な要望などは配布資料がありました(そちらは別記事で改めて検討します)。そして無事に基本法が制定されたら、第二段階として個別法について考えていくことになるようです。
 最後に、第二段階の個別法を整備していくにあたり、課題となることがいくつか挙げられました。中でも日本語学校については質の保証をどう考えていくのか、という点が争点となりそうです。現状、学校法人立・株式会社立・個人立など様々な設置者によって日本語学校が経営されています。そして、教育内容や目的・対象・理念なども学校によってさまざまです。まずはそれらをある程度はっきり類別するようなことを考えなければならないというご提案もありました。そのうえで、主に二方向の質の保証の考え方ができるのではないかとして、「新たな学校類型を定め、参入基準(設置基準)を強化する方法」と「現状の参入基準(設置基準)を維持し、参入後の点検を強化する方法」の二つが挙げられました。
 前者としては、個別法で「日本語学校特別法」のようなものを作り、文科省を所管省庁として置くことが考えられる一方で、学校教育法外に特別法を置くことの必要性や整合性、既存の株式会社立の学校の位置づけをどう考えるか、といった課題もあるとのことです。それに対して後者としては、基本法日本語教育を振興する方向性を明確にし、参入自体は現状維持とするが、別に厳格な点検基準を設け、形だけではなく中身の部分までしっかりとチェックしていくことで質の保証をしていくというものだということでした。ただし、こちらも文科省の関与を明確にすることは必要だが、日振協でもやりきれなかった点検を文科省が十分にその機能を果たせるとは考えにくいため、専門家による点検機関を置く必要があるだろうとのお話もありました。そのためには、「学校の質」の評価基準の考え方、日本語教師の資格の明確化、既存校をどう扱うか、などいくつか考えなければならない課題があり、点検機関を維持する経費をだれが担うのかという現実的な問題も出てくるだろうということでした。そして、そのあたりは現場の先生方にじっくりと議論をしておいてもらいたいというような要望もありました。
 中川氏が直接明言されたわけではありませんが、今回の講演が日振協の主催によるものであり、参加者の中心は日本語学校関係者であることが予想されたため、かなり日本語学校に関わる部分に寄った内容のお話をされていたように感じました。また、フロアからの質疑もやはり日本語学校に関わるものがほとんどでした。しかし、これは中川氏も強調されていましたが、日本語基本法ではあくまで日本語教育を国家の政策の中に位置づけるための総則的なものにすぎず、重要なのはその後に来る個別法の制定段階だろうと思います。基本法議員立法で進めてきていますが、基本法の中に各省庁の役割を示し、個別法は各省庁が中心となって閣法で制定していくことが理想だという話もありました。
 ここまで見てきたように日本語基本法が成立しても、日本語学校に関する細かい規定や待遇面、教育の質などの向上に直接つながるものではありません。第二段階としての個別法を制定していくにあたり、「日本語教育」に関わるわたしたち一人ひとりが声を上げ、「日本語教育」をどのように考えていくのかをきっちりと議論していく必要があるだろうと思いました。
 さて、少々長くなってしまいましたが、基調講演のまとめと補足でした。ご覧いただき、ありがとうございました。引き続き、共有していきますので、よろしくお願いします。

ありのすけ

追記:参考までに中川氏が日本語基本法について自ら語る記事もシェアしておきます。未読の方がいらっしゃればあわせてどうぞご覧ください。

「日本語教育」をめぐる現状と課題シリーズ――はじめに

 先週末から今週頭にかけて以下の2つの研究会に参加した。まったく別の研究会であるが、「日本語教育」をめぐる重要なテーマについて語られた貴重な大会であった。また、これら研究会に先立つ8月1日には特に日本語学校を取り巻く重大な変化として、「出入国管理及び難民認定法第7条第1項第2号の基準を定める省令」の一部改正が施行され、同日、法務省「出入国管理及び難民認定法第7条第1項第2号の基準を定める省令の留学の在留資格に係る基準の規定に基づき日本語教育機関等を定める件」(いわゆる告示校一覧)も改正された。な…何を言っているのかわからないかもしれないが、これら一連の流れと動きはこれからの日本語教育にとって非常に重要なものとなる可能性がある。そこで日本語教育関係者に広く周知・理解されることが望ましいと考え、わたしのわかる範囲で、研究会と法改正にまつわる議論や気づきについていくつか共有したい。

8月5日(土)~6日(日)
開発教育協会 第35回開発教育全国研究集会
於:JICA地球ひろば(東京)

8月7日(月)~9日(水)
日本語教育振興協会 平成29年度日本語学校教育研究大会
於:国立オリンピック記念青少年総合センター(東京)

 と、少々堅苦しい書き出しをしましたが、いろいろなトピックが入り混じって分かりにくくなりそうなので、この記事はあくまでゲートウェイページ(目次)として機能させ、以下、個別の記事で詳しく共有していきたいと思います。リンク・シェアの際はこの記事でしていただけるとよいかと思います。今後随時、記事を追加・更新していきます。また、ある程度まとまってきたら、ありのすのウェブサイトのほうにも転載していきます。
 あと、ここで記事になる前にもTwitterでぶつぶつ呟いてます。よろしければ過去ログtwilog)かアカウント(@mano_arinoske)もご参考までにご覧ください。

ありのすけ

 

【記事一覧】「日本語教育」をめぐる現状と課題シリーズ

 

なぜポール・マッカートニーは「カタカナ」の日本語を話すのか

ザ・ビートルズThe Beatles)のメンバーであるシンガーソングライターのポール・マッカートニーPaul McCartney)氏(以下、ポール)が2年ぶりに来日した。もうあれから一週間ほど経ってしまったが、連日様々なメディアからものすごい勢いでセットリスト(演奏曲目一覧)やライブレポートが公開されていたことはまだ記憶に新しい。たとえば、こんな記事だ。ポールの素晴らしい演奏や演出に会場が沸いたことが伝えられている。

ポール熱唱、熱狂4万8千人 東京ドーム公演始まる:朝日新聞デジタル

ポールさんは日本語で「コンバンハ、ニッポン。コンバンハ、トーキョードーム」「コンカイモ ニホンゴ ガンバリマス」などと語りかけ、会場を沸かせていた。

公演の中ではポールが日本語でMC(曲間のトーク)をする場面があったのだが、記事を読むとどうもポールは「カタカナ」の日本語を話している。これはどこの記事を読んでもだいたい同じように表記してある。なぜポールは「カタカナ」の日本語を話すのだろうか。その答えも報道が教えてくれている。たとえば、こちらの記事が象徴的だ。

「マタアイマショウ!」ポール・マッカートニー【ワン・オン・ワン・ジャパン・ツアー2017】ついに終幕 | Daily News | Billboard JAPAN 

今回も「コンバンハ!」「サイコー!」などはもちろん「ゴールデンウィーク」「トーキョードーム」さらには「ビートルズ」まで、きっちり日本風のカタカナ発音で披露してくれたポール。

記事には「日本風のカタカナ発音」とある。ポールの話す日本語が「カタカナ」なのは発音を忠実に再現したからだということになる。いわゆる片言の日本語というものである。実はわたしも会場で聴いていたので、ポールがどのように発音していたかは分かる。しかしポールは全編に亘って日本語を話していたわけではなく英語でMCを入れることもあった。その際はステージ左右のスクリーンに同時通訳で字幕が出るようになっていた。この「字幕になった日本語」はどのように表記されたのだろうか。それについてはこちらの記事がわかりやすい。

ポール・マッカートニー、武道館で満員のファンを魅了。「ずっと昔の話。ビートルズがこの場所で演奏した」 – 音楽WEBメディア M-ON! MUSIC(エムオンミュージック)

「コンバンワ、ニッポン。コンバンワ、トウキョウ。コンバンワ、ブドウカーン」と日本語で挨拶し、拍手を浴びた。(中略)「ずっと昔の話。ビートルズがこの場所で演奏した。素晴らしいこと」と話し、続けて日本語で「ツギハ、ビートルズ、ハツレコーディング」と曲を紹介し、「In  Spite Of All The Danger」を演奏。 

このように英語を翻訳した発言はひらがなとカタカナと漢字で、すなわち、いわゆる「通常の/自然な日本語表記」になっている。同じ人物の発言であるにもかかわらず、英語と日本語で表記法が異なるのは少し不思議な感じがする。だが、これもやはりどこの記事を読んでも同じように書いてある。なぜか。

それはポールが「日本語非母語話者」(いわゆる「ノンネイティブ」)だからだ。非母語話者の助詞が抜けていたり、発音が異なったりしている日本語は「不自然な日本語/外国人の日本語」として「カタカナ」に回収される。もちろん〈非母語話者の日本語はカタカナで表記すること〉という決まりはない。仮にマスコミ業界に暗黙の了解があったとしても、社によって「コンバンワ」と書いたり「コンバンハ」と書いたりしているし、一方で「コンバンワ」と書きながら他方で「ツギハ」と書いていたりもすることから表記のルールなどないことも分かる。

だからポールが「カタカナ」の日本語を話すのには、ただ「非母語話者が話した不自然な日本語」だと分かりやすくする機能があるだけなのだ(これを有標化という)。この機能は、一つには親しみを表現する効果があるのだろう。メモを見ながら不慣れな日本語を一生懸命に話す姿に日本への親しみを重ね「カタカナ」に込めたのだろうと想像できるからだ。それがカタカナなのは、外来語などを日本語表記にする場合、カタカナが使われることも影響しているのだろう(例:concert → コンサート)。

しかし、そこにいくつかの問題が潜んでいる。非母語話者(もっと端的に言えば「外国人」)の話す日本語を「カタカナ」で表記することのいったい何が問題なのか。それは「カタカナの日本語」≒「非母語話者が話した不自然な日本語」が一つの「言語景観」となって見ている人にすっと埋め込まれていくことにある。確かに「カタカナの日本語」と「通常の/自然な日本語」の二表記を書き分ければどこで〈日本語〉を話しているのかが「わかりやすい」。しかしその区別ははたして要るのか。要るにしても「われわれ」への「わかりやすさ」と「当事者」への「わかりやすさ」は決して一致しない

一つ例を挙げよう。日本語を学習している留学生と日本の学校などを訪問すると、自己紹介の時間などで名札にカタカナで自分の名前を書いてくれる方が多い(例:アリノスケ)。それは留学生=外国人=外国語=カタカナという単純な図式が埋め込まれ「わかりやすい」という配慮からなのだろう。しかし実は個人差はあるが、特に習い始めたばかりの日本語学習者にとってはひらがなよりもカタカナのほうが難しい。今回のように「カタカナ」の日本語で書かれた記事を目にするうちに、まるでポール(非母語話者)が本当に「カタカナ」の日本語を話しているかのように錯覚することで、カタカナなら通じると思い込まされている。

そこまではまだ笑い話になるかもしれない。それに今回の記事には直接的な悪意など込められていない(それどころか上で見たように敬意や称賛が込められている)ことは読めば容易に読み取れる。しかし、悪意がないから問題ではないと言い切ることもできない。境界は常に曖昧なのだ。表裏一体と言ってもいい。ふとした瞬間にそれが悪意を持って立ち現れる。発音や表現を馬鹿にする態度を下支えする根拠にもなりうる。どういうわけかポールのような「お客さん」には「親しみ」を持って受け入れられることも、「生活者」になったとたん「正しさ」に押し込められることもある。だからここでは「正当的な/通常の/自然な/普通の/正しい日本語」の枠組みをきちんと問い直していく必要があるとまずは言いたい。

確かに「正しさ」はどこか安心する。誰もが「正しく」ありたいと思うのは無理もないことなのかもしれない。しかし絶対的な「正しさ」はどこかにあるのだろうか。「正しくない」以上、それは「正しい」方向へ持っていかなければならないという発想になってしまうのではないか。そもそも「正しくない」ことは本当に「悪い」ことなのか。どうだろうか。

少なくとも、母語話者の発音が不自然であると簡単に言ってしまえることに危うさや躊躇いを持ったほうがいい(だから日本語教師は「日本人なら誰でも(判断)できる」なんて言われてしまうのだと思うけれども)。そこにはすでに無意識・無自覚の規範が生まれているからだ(これをわたしは「まなざし」と呼んでいる。)。そしてその規範(「まなざし」)は無意識・無自覚のうちに差別を拡大していく。

このように身近なありとあらゆることの中に「差別」の構造が埋め込まれている。だから気を付けなくてはならない。敏感でなければならない。面倒くさかろうが「常識」だとか「自然」だとか呼ばれるもの一つひとつを手に取り、それは何なのかを確かめ考えていくことが必要なのである。

っと、長くなってきたので、今回はこのあたりで。次回は稿を改めてさらに「差別の構造」に迫ってみたいと思います。よろしければ引き続き、よろしくお願いいたします^^

 

ありのすけ

位置について

ちょっと、待って、待って、まって――。

なんで、いつもそうなっちゃうんだろう……。わたしは、また身動きが取れなくなる。

 

SNSで、日本語教師の某氏が「ヘイトスピーチ」をした。それが「まとめ」になって日本語教育と人種差別に関しての炎上が起こっている。この騒動を目撃したわたしは、得も言われぬやるせなさに襲われて目を回した。

何の話か分からない読者にはいささか不親切だと思うけれど、そのまとめはここには貼らない。発言主がアカウント自体を閉じてしまったし、個人情報までもご丁寧に晒されているからだ。これ以上、不用意に拡散することはしたくない。

確かにアカウントを閉じたことに関しては、晴れない気持ちもある。だが「逃げた」とも取れるが「追い詰められた」とも取れるわけで、 アカウントを閉じるよう指示や助言があったのかもしれないし、自分で決めたとは限らない。つまり分からないのである。いずれにしても、どのような理由があれ、匿名の一個人を個人を特定したうえで糾弾するためのまとめ自体を公開する必要性はないと判断した。

ただしわたしの立場としては、某氏の発言自体は撤回・謝罪あるいは釈明すべきものだという強い憤りがある。だがそれを以って某氏を吊るしあげることにもまた強い憤りがある。そもそもどちらが正しいと決めつけることなどできない。それはなぜか。炎上を覚悟で(そんなに読んでくれる方がいるかもわからないけど)、とりとめもないことを書いておこうと思う。ここで何も言わなかったら、それがいちばんよくないと思うからだ。

その前に、代わりに一つ補足をしておくと、炎上していると書いたものの、実のところ「一部で」というのがより近い表現かもしれない。多くの日本語教師は(わたしも含めて)傍観しているか、一言程度コメントをつけるに留まっている。その少し前には、文型シラバスとタスクシラバスのどっちがいいか、でいろんな立場の方がとても盛り上がっていたというのに。「明日の授業」に直接関係がないことにはそれほど関心を示さないのか、あるいは、発言しにくい話題になってしまっているのか、何も言わないことで某氏を肯定・支援するという意思表示なのか……。

わたしはといえば、その時にも感じたことだったが、どことなくそれは不毛な議論になる予感がして何も言えずにいた。 どちらがいいか、どちらが正しいかを決めようとしているように見えたからだ。「正しさ」を求めはじめたら、そんなの争うしかなくなっちゃうじゃないの。苦しいだけなのに。でも今回は見て見ぬふりはしないことにした。わたしはちゃんと「わたし」を主張する。

 

この騒動のなか、わたしがふと思い出したのは、山本(2012)だった。YouTubeにアップされた動画につけられた複数言語のコメントを分析し、言語が持つ他者を攻撃・否定する一面を実例を以って示したものである。

山本の主張は言語学習の美点ばかりを強調するのではなく、「英語は学ばれ、習得された。そしてここでは、他者を攻撃するために用いられた」(p. 85)と外国語(ここでは英語)を学習したことにより、「顔も名前も知らない他者」を傷つけることが可能となったことを暴き出すものだった。「英語以外の言語で記されていた場合には、非難や否定の応酬に繋がらなかった」(p. 85)というのである。

今回の件は言語学習の例ではないが「顔も名前も知らない誰かとの/不特定多数とのコミュニケーションの機会」(p. 85)であることに変わりはなく、「国籍や民族を基準として、知らない他者を否定する/知らない他者に否定されるという有様」(p. 85)を呈している。このことから山本の主張は広く援用できるものと考えている。山本を読んでわたしが考えたことはおおよそ次の二点だ。

ひとつ。わたしがこれを書いているこの瞬間にも、誰かが誰かを様々な言語でののしりあっているのだろう。世界中にはあらゆる差別が蔓延っている。そう考えれば、ますますたった一人の過ちを徹底的に傷つけ決して許さないでおくことの意味は薄れる。この世の中ではどんなに悔やんでも、償いきれないことのほうが多い。目についたものだけを排除しようというのは、気持ちはわからなくはないけれど、穏やかではない。

ふたつ。暴言や罵倒などは言葉の暴力だと言われることもあるけれど、わたしは厳密にはそうじゃないと考えている。 暴言や罵倒を言葉の暴力たらしめるのは、「名づけ」である。これは暴言だ、と名前をつけることで、暴力として表出されるという意味だ。着目したいのはすなわち「名づけ」そのものが時として暴力にもなる、という点である。名前をつけ、ほかと「分断」し、呼び出すことで、暴力ひいては差別が始まる。だから結果としての差別だけではなく「名づけ」にまで立ち戻る必要がある。

この二点はわたしたちが事態をどう「まなざす」か、ということに集約される。

だから敢えて言いたい。人種差別が差別なのではなく、「人種」や「民族」を実体化しようとすることこそが、差別なのだと感じずにはいられないのだということを。一方では実体化しながら、一方では無力化させようとする。それは無理だ。「名づけ」の力は、最後まで積みあがらない石のように脆く、引き抜いても生え変わる雑草のように根強い。表面だけを見て、あの人は「〇〇」という属性だと安易に判定することに意味はないはずだ。

 

ここでもう一つ、刺激的な文献にあたろう。右だろうが、左だろうが、度を越せばそれはただのセクト主義である、というようなことをパウロフレイレが言っていたような気がして、久しぶりにぱらぱらとめくる。

やはりあった。フレイレは畳みかけるようにセクト主義を批判する。ちょうどこんな感じだ。

セクト主義は狂信性に基づいていて、結局いつも人間の思考を骨抜きにしてしまう」

セクト主義は神話的ともいえる内向きの理論で構成されるため、人間を疎外していく」

セクト主義は内向きで、合理的ではないため、問題ある現状をさらに偽りの現状に変えてしまうため、結局現状変革をもたらすことはない」

「どの立場のセクト主義であれ、セクト主義は人間の解放を妨げるものだ」

フレイレ,2005/2011,pp. 12-13)

何も、あなたはセクト主義ですよね、って言いたいわけじゃない。「セクト主義」はこうだって、言えば言うほど、そう、たちまち、まなざされて、からめとられて、流されてゆくのは、もう、いい加減にしてよ、ってぐらい思い知ってる。

だからわたしが言いたいことはそんなことじゃない。誰かを「悪者」にして立ち上がる未来ならいらない。どちらが正しいか、正しくないか、なんて文脈によって十分変わりうるのだ。それでも断じたいというその気持ちはどこから来るのかを考えなければ、同じことの繰り返し。ただ許せないことが増えてゆく。学習性無力感でいっぱいになる。そして、争うしかなくなってしまう。

どんなことがあっても、どんな相手とも、ともに生きてゆくことを目指せなければ、それは欺瞞だ、偽善だ、演技だ、自己満足だ。何もとにかく折れろと言ってるわけじゃない。すべてを受け入れ愛したまえなんて言ってない。ただ、なぜあなたはそう考えるの、と問えばいい。それがコミュニケーションなんじゃないの。そこからじゃん。と、いう話がしたいんだ。まして日本語教育の役割の一つによりよいコミュニケーションの促進があるのだとすれば、日本語教師がそれを諦めてしまうことのほうがよっぽど怖い。

 

わたしのそんなには長くないキャリアのなかでたった一度だけ学生の前で泣いたことがある。まだ日本語教師になったばかりのころだった。

「先生たちは〇〇人が嫌い。わたしたちあの人たちと同じじゃないね」

ある学生が吐き捨てるようにそう言ったのを聞いて、わたしは気付くよりも先に泣いていた。ぼろぼろ涙をこぼすわたしを見て、その学生は「先生のことじゃない。先生はいい先生」と慌てて言ってくれたけど、そんなことじゃない。ただ自分のことを非難されたぐらいだったら泣いたりしない。こんなにも強烈に発露されるナショナルアイデンティティとそれに基づく憎しみの感情、それを誘発した自らの教室の罪深さ、それを担保するクラスメイトや同僚そして「わたし」。わたしにとっては呪いの呪文だった。

どこで違えたのか、きっとそれはほんの些細な所作にも表れて、憎しみは積みあがる。そしてそれは語られない。どうしてか「タブー」のようになって、しまい込まれてしまう。たとえ爆発しなくても。「日本文化」だとか、「あなたの国の文化」だとか、そんなものばかり、にこにこしながら教室に持ち込んで、どんどんと実体化してゆく。リバーシブルだとも知らずに。めくったら、何が待っている?

だからね、別にいわゆる「ヘイトスピーチ」だけが差別的な発言ではないの。それも差別には違いないけれど、それだけを取り締まればいいとは思えない。「〇〇人の」と口にした瞬間にためらうことがあるだろうか。ないだろうか。「〇〇人」なんているんだろうか。いないんだろうか。本当だろうか。どうだろうか。

「〇〇人」と言うことが気持ちいい人もいるのだろうし、それを誇りにすることを否定するつもりはない。でもわたしはこの一件以来、「〇〇人」というアイデンティティを背負わされることも背負わせることもほとほと嫌になってしまった。もう正直に言う。それって日本人的だよね、なんて言われた日には、それはわたしにとっては十分すぎるほどの「ヘイトスピーチ」なのだ。こういうことを言うと、じゃあ日本人やめればと言われることがあるが、そうじゃない。わたしが逃れたいのは「日本人」であることじゃなくて「〇〇人」という帰属性そのものなのだ。何人であるかではなく、何者であるかでここにいたい。

けれどもその囲いは国籍に留まらず、性差、年齢、世代、職業、宗教、家柄、嗜好、婚姻、風貌、体質、収入、経歴……あげつらえばきりがないほどにわたし(たち)を押し込めて、そのたびにわたしはいつも逃げ出したくなる。だから何だよって言いたい。あまりにも分断して敵対して、それでどんな未来をつくりたいんだろう。自分(たち)にとって都合のいい世界をつくることが、「理想の未来」なの?それってほんとによりよい未来なの?ってちゃんと言い合える、実はこうなんじゃないの?って相談し合える、そっちのほうがよくない?「理想の未来」は永遠にやってこないの。一人ひとりが「理想の未来」を目指そうとして、うまくいかなくて、それでもともに生きるから、未来は変わるの、できるの、それが「よりよい未来」なんだと思うの。

 

まだわたしは主張する。そんなのきれいごとだよねって言われると思う。いい加減これ長いんだよって言われると思う。それでも関係なくないんだ、ということ。

例えば「あの女性はとてもきれいだ」と思うこと。これが「まなざし」だ。でも「あの女性はとてもきれいだ」ということと、「あの女性にはきれいでいてもらいたい」ということは同じではない。また「こちらの女性もきれいだ」ということとも一致しない。しかしそれが「女性はきれいだ」「きれいであることは女性にとっていいことだ」と解釈されることで「女性」を作り出し、また「女性」像が強化されることで「男性」とは違うという「まなざし」が生まれ、「女性」か「男性」かを規定したくなる、規定できると思い込まされる。それは何度でも再生産されてゆく。そして「女性は美しくあるべきだ」「女性とはこういうものだ」と生きづらさを引き連れて拡大して、あぁ、戻ってくる、これはなんだ?

「女性に生まれてよかった」「女性になんか生まれなければよかった」「女性でいさせてもらえない」「女性になりたい」「女性は素晴らしい」「だから女性は嫌なんだ」「女性だからこうしなくちゃ」「男性はいいよね」「男性のこういうところが嫌」「男性のくせに」「いやまあ女性も男性も人間っしょ」……おいおいおいおいおい、もうやめてくれよ。

だからさ、肝心なことを忘れていないか。それを選び取る、ということが大事なのだ。「きれいでいたい」と思えば誰であれ、きれいでいられる、それもその個人の考える「きれいさ」の基準で。それを尊重する。お仕着せの「〇〇」像ではなく、わたしにとっての「わたし」を関係性のなかで構築することができる。そんな社会のほうが生きやすいとわたしは思うのだけれど、どうもそうじゃない?でもね、そうでなければ、決して、決して、決して、差別のない未来はやってこない。

だから人種差別の話を「人種」を取り立てて議論しているうちはきっと何度でも同じことが起こって差別はなくなんないんだって悲観的になるしかなくなる。そうではなく「差別」に向き合って、「差別」とは何か、なぜいけないのか、どうして起こるのか、どのように解決できるか、といろいろな立場の人間がひたすらに意見交換していくことを目指せないだろうか。

ありとあらゆる「まなざし」を解体し、ともに編みながら、そのなかに、未来を、希望を、創発できないのかなぁ。そうでなければ、どうしたって報復のようになってしまう。そしてそこからこぼれ落ちるものがたくさん生まれる。

人種差別を気にする人がいる。地球環境を気にする人がいる。男女差別を気にする人がいる。食べ物を気にする人がいる。でも、それぞれそれ以外には無頓着だったりする。自分が許したくないものだけを熱心に囲い込んで許さない。それは結構、むちゃくちゃな話なんじゃないかな。どんな立場にいたって一人ひとりを尊重できないのなら、それはやっぱり、行き詰まる日がやってくる。もう行き詰まっているのかもしれない。

 

ここまで考えて、また何も言えなくなりそうで、ちょっとだけ苦しい。

わたしは、いつも走り出せない。位置について、それで力尽きてしまう。

位置につくことのその先に待つグロテスクな幻影の後ろ姿を見てしまうからだ。

まだ前を見る前に自信を失ってゆく。躓いてばかりだ。

 

わたしは、どこにいるのか。どこへ向かうのか。

あなたは、いま、どこにいるのか。どこへ向かおうとするのか。

 

でも、そこに課題があるのなら、いかなくちゃ。何度でも言わなくちゃ。黙っていたら、逃げてばかりいたら、伝わるものも伝わらない。今日のわたしのことばは届かないかもしれない。それでもいつかどこかで掬ってくださる誰かが、きっといるはずだと信じることから始めたい。

コナンくんには悪いけど、たった一つの真実なんてないんだよ。あるのは、「まなざし」とそれに「まなざされたもの」だけ。だから「まなざし」を鍛えなければならないの。まったく残酷だ。でも、特にポストトゥルースと言われるこの時代には、「よりよい未来」をともに考える「まなざし」が必要です。

 

だからわたしは「ありのす」を作りたかったのだと今は思います。「まなざし」からこぼれ落ちるものを、掬いあげるために。たくさん言ってごめんなさい。きっと不快になった方もいらっしゃるでしょう。それでも最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。あ、コナンくんは好きですよ。

 

ありのすけ

 

文献

フレイレ,P.(2011).三砂ちづる(訳)『被抑圧者の教育学――新訳』亜紀書房(Freire, P. (2005). Pedagogia do oprimido. 46th ed., Rio de Janeiro: Paz e Terra.).

山本冴里(2012).言葉は繋ぐ/言葉は断ち切る――他者非難・否定のコメントにおけるナショナル・アイデンティティ表出と英語使用『国際研究集会「私はどのような教育実践をめざすのか――言語教育とアイデンティティ」プロシーディング』79-86.

新年度

今日から新年度がはじまりました。2017年度です。それぞれにいろいろな、そして新しい年度となることと思います。わたしもここ数年はどうも代わり映えしない新年度だと思ってきたのですが、今年は変化の年になりました。

やってみたいことも今はたくさんあります。いろいろと楽しみな年度初めです。またこちらでも追々書いていきたいと思います。今年度もどうぞよろしくお願いいたします。

 

ありのすけ

それでも、結ぶ、編む、そして折る。

こんばんは。今日は友人のお墓参りに行ってきました。数年ぶりに会う友人もおり、懐かしい思い出話などに花が咲きました。

人とは不思議なものです。つくづく思うのです。ここ数年、人とかかわることがとみに増えました。仕事柄、というのもありますが、いわゆる日本語のお仕事とは関係のない方々とも接する機会が多くあります。

出逢いがあれば、別れもまたあります。特段、春はそんな季節のような気もしてきますが、何のことはない、それはいつでも、どこでも、ふとした瞬間にやってきたりします。そのたびに、何度でも思い出してゆくのでしょう。

いつ、どこで、だれと、どんなふうに出逢い、なにをやりとりし、その果てになにを視るのか。それはその一瞬にしかわからないものであり、どうすることもできないのだと知っても、なお、わたしは、わたしを生きようとしてみるのですね。

ふと、そんなことを思いました。書き留めておこうと。これも、よくわからない「ありのす」の一部になればいいなと思います。ここで考えたことが、きっとよりよい実践を、よりよい人生を、よりよい未来を作ってゆくことになるはずだと信じて。

なぜ出逢うのか。今宵も問いましょう。おやすみなさい。

 

ありのすけ