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真野蟻乃典(MANO Arinoske)|「ありのす」管理人・主宰

位置について

ちょっと、待って、待って、まって――。

なんで、いつもそうなっちゃうんだろう……。わたしは、また身動きが取れなくなる。

 

SNSで、日本語教師の某氏が「ヘイトスピーチ」をした。それが「まとめ」になって日本語教育と人種差別に関しての炎上が起こっている。この騒動を目撃したわたしは、得も言われぬやるせなさに襲われて目を回した。

何の話か分からない読者にはいささか不親切だと思うけれど、そのまとめはここには貼らない。発言主がアカウント自体を閉じてしまったし、個人情報までもご丁寧に晒されているからだ。これ以上、不用意に拡散することはしたくない。

確かにアカウントを閉じたことに関しては、晴れない気持ちもある。だが「逃げた」とも取れるが「追い詰められた」とも取れるわけで、 アカウントを閉じるよう指示や助言があったのかもしれないし、自分で決めたとは限らない。つまり分からないのである。いずれにしても、どのような理由があれ、匿名の一個人を個人を特定したうえで糾弾するためのまとめ自体を公開する必要性はないと判断した。

ただしわたしの立場としては、某氏の発言自体は撤回・謝罪あるいは釈明すべきものだという強い憤りがある。だがそれを以って某氏を吊るしあげることにもまた強い憤りがある。そもそもどちらが正しいと決めつけることなどできない。それはなぜか。炎上を覚悟で(そんなに読んでくれる方がいるかもわからないけど)、とりとめもないことを書いておこうと思う。ここで何も言わなかったら、それがいちばんよくないと思うからだ。

その前に、代わりに一つ補足をしておくと、炎上していると書いたものの、実のところ「一部で」というのがより近い表現かもしれない。多くの日本語教師は(わたしも含めて)傍観しているか、一言程度コメントをつけるに留まっている。その少し前には、文型シラバスとタスクシラバスのどっちがいいか、でいろんな立場の方がとても盛り上がっていたというのに。「明日の授業」に直接関係がないことにはそれほど関心を示さないのか、あるいは、発言しにくい話題になってしまっているのか、何も言わないことで某氏を肯定・支援するという意思表示なのか……。

わたしはといえば、その時にも感じたことだったが、どことなくそれは不毛な議論になる予感がして何も言えずにいた。 どちらがいいか、どちらが正しいかを決めようとしているように見えたからだ。「正しさ」を求めはじめたら、そんなの争うしかなくなっちゃうじゃないの。苦しいだけなのに。でも今回は見て見ぬふりはしないことにした。わたしはちゃんと「わたし」を主張する。

 

この騒動のなか、わたしがふと思い出したのは、山本(2012)だった。YouTubeにアップされた動画につけられた複数言語のコメントを分析し、言語が持つ他者を攻撃・否定する一面を実例を以って示したものである。

山本の主張は言語学習の美点ばかりを強調するのではなく、「英語は学ばれ、習得された。そしてここでは、他者を攻撃するために用いられた」(p. 85)と外国語(ここでは英語)を学習したことにより、「顔も名前も知らない他者」を傷つけることが可能となったことを暴き出すものだった。「英語以外の言語で記されていた場合には、非難や否定の応酬に繋がらなかった」(p. 85)というのである。

今回の件は言語学習の例ではないが「顔も名前も知らない誰かとの/不特定多数とのコミュニケーションの機会」(p. 85)であることに変わりはなく、「国籍や民族を基準として、知らない他者を否定する/知らない他者に否定されるという有様」(p. 85)を呈している。このことから山本の主張は広く援用できるものと考えている。山本を読んでわたしが考えたことはおおよそ次の二点だ。

ひとつ。わたしがこれを書いているこの瞬間にも、誰かが誰かを様々な言語でののしりあっているのだろう。世界中にはあらゆる差別が蔓延っている。そう考えれば、ますますたった一人の過ちを徹底的に傷つけ決して許さないでおくことの意味は薄れる。この世の中ではどんなに悔やんでも、償いきれないことのほうが多い。目についたものだけを排除しようというのは、気持ちはわからなくはないけれど、穏やかではない。

ふたつ。暴言や罵倒などは言葉の暴力だと言われることもあるけれど、わたしは厳密にはそうじゃないと考えている。 暴言や罵倒を言葉の暴力たらしめるのは、「名づけ」である。これは暴言だ、と名前をつけることで、暴力として表出されるという意味だ。着目したいのはすなわち「名づけ」そのものが時として暴力にもなる、という点である。名前をつけ、ほかと「分断」し、呼び出すことで、暴力ひいては差別が始まる。だから結果としての差別だけではなく「名づけ」にまで立ち戻る必要がある。

この二点はわたしたちが事態をどう「まなざす」か、ということに集約される。

だから敢えて言いたい。人種差別が差別なのではなく、「人種」や「民族」を実体化しようとすることこそが、差別なのだと感じずにはいられないのだということを。一方では実体化しながら、一方では無力化させようとする。それは無理だ。「名づけ」の力は、最後まで積みあがらない石のように脆く、引き抜いても生え変わる雑草のように根強い。表面だけを見て、あの人は「〇〇」という属性だと安易に判定することに意味はないはずだ。

 

ここでもう一つ、刺激的な文献にあたろう。右だろうが、左だろうが、度を越せばそれはただのセクト主義である、というようなことをパウロフレイレが言っていたような気がして、久しぶりにぱらぱらとめくる。

やはりあった。フレイレは畳みかけるようにセクト主義を批判する。ちょうどこんな感じだ。

セクト主義は狂信性に基づいていて、結局いつも人間の思考を骨抜きにしてしまう」

セクト主義は神話的ともいえる内向きの理論で構成されるため、人間を疎外していく」

セクト主義は内向きで、合理的ではないため、問題ある現状をさらに偽りの現状に変えてしまうため、結局現状変革をもたらすことはない」

「どの立場のセクト主義であれ、セクト主義は人間の解放を妨げるものだ」

フレイレ,2005/2011,pp. 12-13)

何も、あなたはセクト主義ですよね、って言いたいわけじゃない。「セクト主義」はこうだって、言えば言うほど、そう、たちまち、まなざされて、からめとられて、流されてゆくのは、もう、いい加減にしてよ、ってぐらい思い知ってる。

だからわたしが言いたいことはそんなことじゃない。誰かを「悪者」にして立ち上がる未来ならいらない。どちらが正しいか、正しくないか、なんて文脈によって十分変わりうるのだ。それでも断じたいというその気持ちはどこから来るのかを考えなければ、同じことの繰り返し。ただ許せないことが増えてゆく。学習性無力感でいっぱいになる。そして、争うしかなくなってしまう。

どんなことがあっても、どんな相手とも、ともに生きてゆくことを目指せなければ、それは欺瞞だ、偽善だ、演技だ、自己満足だ。何もとにかく折れろと言ってるわけじゃない。すべてを受け入れ愛したまえなんて言ってない。ただ、なぜあなたはそう考えるの、と問えばいい。それがコミュニケーションなんじゃないの。そこからじゃん。と、いう話がしたいんだ。まして日本語教育の役割の一つによりよいコミュニケーションの促進があるのだとすれば、日本語教師がそれを諦めてしまうことのほうがよっぽど怖い。

 

わたしのそんなには長くないキャリアのなかでたった一度だけ学生の前で泣いたことがある。まだ日本語教師になったばかりのころだった。

「先生たちは〇〇人が嫌い。わたしたちあの人たちと同じじゃないね」

ある学生が吐き捨てるようにそう言ったのを聞いて、わたしは気付くよりも先に泣いていた。ぼろぼろ涙をこぼすわたしを見て、その学生は「先生のことじゃない。先生はいい先生」と慌てて言ってくれたけど、そんなことじゃない。ただ自分のことを非難されたぐらいだったら泣いたりしない。こんなにも強烈に発露されるナショナルアイデンティティとそれに基づく憎しみの感情、それを誘発した自らの教室の罪深さ、それを担保するクラスメイトや同僚そして「わたし」。わたしにとっては呪いの呪文だった。

どこで違えたのか、きっとそれはほんの些細な所作にも表れて、憎しみは積みあがる。そしてそれは語られない。どうしてか「タブー」のようになって、しまい込まれてしまう。たとえ爆発しなくても。「日本文化」だとか、「あなたの国の文化」だとか、そんなものばかり、にこにこしながら教室に持ち込んで、どんどんと実体化してゆく。リバーシブルだとも知らずに。めくったら、何が待っている?

だからね、別にいわゆる「ヘイトスピーチ」だけが差別的な発言ではないの。それも差別には違いないけれど、それだけを取り締まればいいとは思えない。「〇〇人の」と口にした瞬間にためらうことがあるだろうか。ないだろうか。「〇〇人」なんているんだろうか。いないんだろうか。本当だろうか。どうだろうか。

「〇〇人」と言うことが気持ちいい人もいるのだろうし、それを誇りにすることを否定するつもりはない。でもわたしはこの一件以来、「〇〇人」というアイデンティティを背負わされることも背負わせることもほとほと嫌になってしまった。もう正直に言う。それって日本人的だよね、なんて言われた日には、それはわたしにとっては十分すぎるほどの「ヘイトスピーチ」なのだ。こういうことを言うと、じゃあ日本人やめればと言われることがあるが、そうじゃない。わたしが逃れたいのは「日本人」であることじゃなくて「〇〇人」という帰属性そのものなのだ。何人であるかではなく、何者であるかでここにいたい。

けれどもその囲いは国籍に留まらず、性差、年齢、世代、職業、宗教、家柄、嗜好、婚姻、風貌、体質、収入、経歴……あげつらえばきりがないほどにわたし(たち)を押し込めて、そのたびにわたしはいつも逃げ出したくなる。だから何だよって言いたい。あまりにも分断して敵対して、それでどんな未来をつくりたいんだろう。自分(たち)にとって都合のいい世界をつくることが、「理想の未来」なの?それってほんとによりよい未来なの?ってちゃんと言い合える、実はこうなんじゃないの?って相談し合える、そっちのほうがよくない?「理想の未来」は永遠にやってこないの。一人ひとりが「理想の未来」を目指そうとして、うまくいかなくて、それでもともに生きるから、未来は変わるの、できるの、それが「よりよい未来」なんだと思うの。

 

まだわたしは主張する。そんなのきれいごとだよねって言われると思う。いい加減これ長いんだよって言われると思う。それでも関係なくないんだ、ということ。

例えば「あの女性はとてもきれいだ」と思うこと。これが「まなざし」だ。でも「あの女性はとてもきれいだ」ということと、「あの女性にはきれいでいてもらいたい」ということは同じではない。また「こちらの女性もきれいだ」ということとも一致しない。しかしそれが「女性はきれいだ」「きれいであることは女性にとっていいことだ」と解釈されることで「女性」を作り出し、また「女性」像が強化されることで「男性」とは違うという「まなざし」が生まれ、「女性」か「男性」かを規定したくなる、規定できると思い込まされる。それは何度でも再生産されてゆく。そして「女性は美しくあるべきだ」「女性とはこういうものだ」と生きづらさを引き連れて拡大して、あぁ、戻ってくる、これはなんだ?

「女性に生まれてよかった」「女性になんか生まれなければよかった」「女性でいさせてもらえない」「女性になりたい」「女性は素晴らしい」「だから女性は嫌なんだ」「女性だからこうしなくちゃ」「男性はいいよね」「男性のこういうところが嫌」「男性のくせに」「いやまあ女性も男性も人間っしょ」……おいおいおいおいおい、もうやめてくれよ。

だからさ、肝心なことを忘れていないか。それを選び取る、ということが大事なのだ。「きれいでいたい」と思えば誰であれ、きれいでいられる、それもその個人の考える「きれいさ」の基準で。それを尊重する。お仕着せの「〇〇」像ではなく、わたしにとっての「わたし」を関係性のなかで構築することができる。そんな社会のほうが生きやすいとわたしは思うのだけれど、どうもそうじゃない?でもね、そうでなければ、決して、決して、決して、差別のない未来はやってこない。

だから人種差別の話を「人種」を取り立てて議論しているうちはきっと何度でも同じことが起こって差別はなくなんないんだって悲観的になるしかなくなる。そうではなく「差別」に向き合って、「差別」とは何か、なぜいけないのか、どうして起こるのか、どのように解決できるか、といろいろな立場の人間がひたすらに意見交換していくことを目指せないだろうか。

ありとあらゆる「まなざし」を解体し、ともに編みながら、そのなかに、未来を、希望を、創発できないのかなぁ。そうでなければ、どうしたって報復のようになってしまう。そしてそこからこぼれ落ちるものがたくさん生まれる。

人種差別を気にする人がいる。地球環境を気にする人がいる。男女差別を気にする人がいる。食べ物を気にする人がいる。でも、それぞれそれ以外には無頓着だったりする。自分が許したくないものだけを熱心に囲い込んで許さない。それは結構、むちゃくちゃな話なんじゃないかな。どんな立場にいたって一人ひとりを尊重できないのなら、それはやっぱり、行き詰まる日がやってくる。もう行き詰まっているのかもしれない。

 

ここまで考えて、また何も言えなくなりそうで、ちょっとだけ苦しい。

わたしは、いつも走り出せない。位置について、それで力尽きてしまう。

位置につくことのその先に待つグロテスクな幻影の後ろ姿を見てしまうからだ。

まだ前を見る前に自信を失ってゆく。躓いてばかりだ。

 

わたしは、どこにいるのか。どこへ向かうのか。

あなたは、いま、どこにいるのか。どこへ向かおうとするのか。

 

でも、そこに課題があるのなら、いかなくちゃ。何度でも言わなくちゃ。黙っていたら、逃げてばかりいたら、伝わるものも伝わらない。今日のわたしのことばは届かないかもしれない。それでもいつかどこかで掬ってくださる誰かが、きっといるはずだと信じることから始めたい。

コナンくんには悪いけど、たった一つの真実なんてないんだよ。あるのは、「まなざし」とそれに「まなざされたもの」だけ。だから「まなざし」を鍛えなければならないの。まったく残酷だ。でも、特にポストトゥルースと言われるこの時代には、「よりよい未来」をともに考える「まなざし」が必要です。

 

だからわたしは「ありのす」を作りたかったのだと今は思います。「まなざし」からこぼれ落ちるものを、掬いあげるために。たくさん言ってごめんなさい。きっと不快になった方もいらっしゃるでしょう。それでも最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。あ、コナンくんは好きですよ。

 

ありのすけ

 

文献

フレイレ,P.(2011).三砂ちづる(訳)『被抑圧者の教育学――新訳』亜紀書房(Freire, P. (2005). Pedagogia do oprimido. 46th ed., Rio de Janeiro: Paz e Terra.).

山本冴里(2012).言葉は繋ぐ/言葉は断ち切る――他者非難・否定のコメントにおけるナショナル・アイデンティティ表出と英語使用『国際研究集会「私はどのような教育実践をめざすのか――言語教育とアイデンティティ」プロシーディング』79-86.