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ありのすBlog arinos_blog

真野蟻乃典(MANO Arinoske)|「ありのす」管理人・主宰

なぜポール・マッカートニーは「カタカナ」の日本語を話すのか

ザ・ビートルズThe Beatles)のメンバーであるシンガーソングライターのポール・マッカートニーPaul McCartney)氏(以下、ポール)が2年ぶりに来日した。もうあれから一週間ほど経ってしまったが、連日様々なメディアからものすごい勢いでセットリスト(演奏曲目一覧)やライブレポートが公開されていたことはまだ記憶に新しい。たとえば、こんな記事だ。ポールの素晴らしい演奏や演出に会場が沸いたことが伝えられている。

ポール熱唱、熱狂4万8千人 東京ドーム公演始まる:朝日新聞デジタル

ポールさんは日本語で「コンバンハ、ニッポン。コンバンハ、トーキョードーム」「コンカイモ ニホンゴ ガンバリマス」などと語りかけ、会場を沸かせていた。

公演の中ではポールが日本語でMC(曲間のトーク)をする場面があったのだが、記事を読むとどうもポールは「カタカナ」の日本語を話している。これはどこの記事を読んでもだいたい同じように表記してある。なぜポールは「カタカナ」の日本語を話すのだろうか。その答えも報道が教えてくれている。たとえば、こちらの記事が象徴的だ。

「マタアイマショウ!」ポール・マッカートニー【ワン・オン・ワン・ジャパン・ツアー2017】ついに終幕 | Daily News | Billboard JAPAN 

今回も「コンバンハ!」「サイコー!」などはもちろん「ゴールデンウィーク」「トーキョードーム」さらには「ビートルズ」まで、きっちり日本風のカタカナ発音で披露してくれたポール。

記事には「日本風のカタカナ発音」とある。ポールの話す日本語が「カタカナ」なのは発音を忠実に再現したからだということになる。いわゆる片言の日本語というものである。実はわたしも会場で聴いていたので、ポールがどのように発音していたかは分かる。しかしポールは全編に亘って日本語を話していたわけではなく英語でMCを入れることもあった。その際はステージ左右のスクリーンに同時通訳で字幕が出るようになっていた。この「字幕になった日本語」はどのように表記されたのだろうか。それについてはこちらの記事がわかりやすい。

ポール・マッカートニー、武道館で満員のファンを魅了。「ずっと昔の話。ビートルズがこの場所で演奏した」 – 音楽WEBメディア M-ON! MUSIC(エムオンミュージック)

「コンバンワ、ニッポン。コンバンワ、トウキョウ。コンバンワ、ブドウカーン」と日本語で挨拶し、拍手を浴びた。(中略)「ずっと昔の話。ビートルズがこの場所で演奏した。素晴らしいこと」と話し、続けて日本語で「ツギハ、ビートルズ、ハツレコーディング」と曲を紹介し、「In  Spite Of All The Danger」を演奏。 

このように英語を翻訳した発言はひらがなとカタカナと漢字で、すなわち、いわゆる「通常の/自然な日本語表記」になっている。同じ人物の発言であるにもかかわらず、英語と日本語で表記法が異なるのは少し不思議な感じがする。だが、これもやはりどこの記事を読んでも同じように書いてある。なぜか。

それはポールが「日本語非母語話者」(いわゆる「ノンネイティブ」)だからだ。非母語話者の助詞が抜けていたり、発音が異なったりしている日本語は「不自然な日本語/外国人の日本語」として「カタカナ」に回収される。もちろん〈非母語話者の日本語はカタカナで表記すること〉という決まりはない。仮にマスコミ業界に暗黙の了解があったとしても、社によって「コンバンワ」と書いたり「コンバンハ」と書いたりしているし、一方で「コンバンワ」と書きながら他方で「ツギハ」と書いていたりもすることから表記のルールなどないことも分かる。

だからポールが「カタカナ」の日本語を話すのには、ただ「非母語話者が話した不自然な日本語」だと分かりやすくする機能があるだけなのだ(これを有標化という)。この機能は、一つには親しみを表現する効果があるのだろう。メモを見ながら不慣れな日本語を一生懸命に話す姿に日本への親しみを重ね「カタカナ」に込めたのだろうと想像できるからだ。それがカタカナなのは、外来語などを日本語表記にする場合、カタカナが使われることも影響しているのだろう(例:concert → コンサート)。

しかし、そこにいくつかの問題が潜んでいる。非母語話者(もっと端的に言えば「外国人」)の話す日本語を「カタカナ」で表記することのいったい何が問題なのか。それは「カタカナの日本語」≒「非母語話者が話した不自然な日本語」が一つの「言語景観」となって見ている人にすっと埋め込まれていくことにある。確かに「カタカナの日本語」と「通常の/自然な日本語」の二表記を書き分ければどこで〈日本語〉を話しているのかが「わかりやすい」。しかしその区別ははたして要るのか。要るにしても「われわれ」への「わかりやすさ」と「当事者」への「わかりやすさ」は決して一致しない

一つ例を挙げよう。日本語を学習している留学生と日本の学校などを訪問すると、自己紹介の時間などで名札にカタカナで自分の名前を書いてくれる方が多い(例:アリノスケ)。それは留学生=外国人=外国語=カタカナという単純な図式が埋め込まれ「わかりやすい」という配慮からなのだろう。しかし実は個人差はあるが、特に習い始めたばかりの日本語学習者にとってはひらがなよりもカタカナのほうが難しい。今回のように「カタカナ」の日本語で書かれた記事を目にするうちに、まるでポール(非母語話者)が本当に「カタカナ」の日本語を話しているかのように錯覚することで、カタカナなら通じると思い込まされている。

そこまではまだ笑い話になるかもしれない。それに今回の記事には直接的な悪意など込められていない(それどころか上で見たように敬意や称賛が込められている)ことは読めば容易に読み取れる。しかし、悪意がないから問題ではないと言い切ることもできない。境界は常に曖昧なのだ。表裏一体と言ってもいい。ふとした瞬間にそれが悪意を持って立ち現れる。発音や表現を馬鹿にする態度を下支えする根拠にもなりうる。どういうわけかポールのような「お客さん」には「親しみ」を持って受け入れられることも、「生活者」になったとたん「正しさ」に押し込められることもある。だからここでは「正当的な/通常の/自然な/普通の/正しい日本語」の枠組みをきちんと問い直していく必要があるとまずは言いたい。

確かに「正しさ」はどこか安心する。誰もが「正しく」ありたいと思うのは無理もないことなのかもしれない。しかし絶対的な「正しさ」はどこかにあるのだろうか。「正しくない」以上、それは「正しい」方向へ持っていかなければならないという発想になってしまうのではないか。そもそも「正しくない」ことは本当に「悪い」ことなのか。どうだろうか。

少なくとも、母語話者の発音が不自然であると簡単に言ってしまえることに危うさや躊躇いを持ったほうがいい(だから日本語教師は「日本人なら誰でも(判断)できる」なんて言われてしまうのだと思うけれども)。そこにはすでに無意識・無自覚の規範が生まれているからだ(これをわたしは「まなざし」と呼んでいる。)。そしてその規範(「まなざし」)は無意識・無自覚のうちに差別を拡大していく。

このように身近なありとあらゆることの中に「差別」の構造が埋め込まれている。だから気を付けなくてはならない。敏感でなければならない。面倒くさかろうが「常識」だとか「自然」だとか呼ばれるもの一つひとつを手に取り、それは何なのかを確かめ考えていくことが必要なのである。

っと、長くなってきたので、今回はこのあたりで。次回は稿を改めてさらに「差別の構造」に迫ってみたいと思います。よろしければ引き続き、よろしくお願いいたします^^

 

ありのすけ